看護の日 震災時の看護 実体験" />
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看護の日 震災時の看護から [暮らし]



毎年5月12日はフローレンス・ナイチンゲールの誕生日に由来して
国際ナースデーとなっています。
日本では、看護及び看護職に対する理解を深め、社会的評価を
高めていく記念日として1990年に看護の日として制定されました。

今回は、実体験から震災時の看護を考えて
みたいと思います。

昨年の3月11日、東北地方は
巨大地震に加えて大津波に見舞われ、
そのあげくに放射能被害を受けました。

この時の医療の現場はどうであったか。
看護職は、どのように対応できたか等々。
数えあげればきりがないほどお伝えしたいことは
たくさんありますが、あまりに身近な体験なので
今まで掲載できずにいました。
一年後の看護の日に当たって、自分なりに何か発信すべきではと
考えるようになりました。

当日は、金曜日で第一回目の巨大地震は、3時少し前に
きました。
私は、安全管理担当なので、まず事務室へ行き、
今後の対策と病棟の状況等を把握し報告。
病棟では、幸けが人はなく、不安ながらも患者さんを落ち着かせながら
避難などの指示待ちをしている状況でした。

この時、病院内は、電気は通っていましたが、
電話は、固定、携帯ともほとんどつながらない状況でした。
他との通信手段を奪われた私たちは、
情報をテレビに頼るしかない状況でした。

あまりにも揺れが大きいので、マニュアル通りに
まず院内のグランドに患者さんを誘導しましたが、
当日はちらちらと雪も降っており、寝たきりの方や、
認知症の方も多く、体力の低下を防ぐためにも
夕方からはホールに入ってもらい、
いつでも外に出られる体制を維持しました。

院外では、大津波でたくさんの人が飲み込まれ、
地震のために各地で道路の寸断が起こっていました。

病院は、世の中から隔離されたような状況になっており、
今日届くはずの薬も届かず連絡するにも手段がない。
緊急事態の中で夜勤者は出てこれる人が少なく、
日勤者で残れる人にはそのまま夜勤体制をお願いしました。
それでもまだこの時点では、地震はいつか終わる筈、
なんとか乗り切れると思っていました。

しかし、原子力発電所の爆発のニュースから
事態は一変しました。
百数名の患者さんと職員の命をどう守るか?
放射能事故に関する安全管理は、マニュアルにはなく、
また、どこからも救いの手はこなっかたのが現実です。

何日間持ちこたえればよいのか?
くすりと食料は間に合うか、患者さんんは落ち着いているか。
アンテナを四方八方にめぐらしながらなんとか数日をしのぎ
全員で病院を脱出できたのは14日の夕方、
そこから患者さんと職員の避難生活が始まり、
18日まで続きました。

避難は福島から転々と東京まで、
この間、通常点滴や経管栄養の患者さんがいても、
いつものように点滴をすることもできない状況でした。
体力の衰えが顕著な数名の患者さんは、幸いほかの病院に
引き取っていただくことができました。

看護者たちは、患者さんに食事介助をするにも
スプーンもなく、ヨーグルトのふたなどを折り曲げて
スプーンにしました。
夜は過酷な状況の中、体温低下を防ぐため患者さんの
間に横になり自分の体温で温めて過ごしました。

この大震災を通して、本当の看護の在り方と看護の底力、
医療者としての結束を感じました。





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